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足利 義氏(あしかが よしうじ)は、戦国時代の人物で、第5代古河公方(在職:1552年 - 1583年)。同名の足利義氏から数えて14代目の子孫に当たる。父は第4代古河公方の足利晴氏、母は北条氏綱の娘の芳春院。正室は北条氏康の娘の浄光院殿。異母兄弟に足利藤氏や足利藤政がいる。 ※ 日付は、和暦による旧暦。西暦表記の部分は、ユリウス暦とする。 == 生涯 == 天文10年(1541年)1月15日、足利晴氏の次男(異説あり)として小田原城で生まれる(『下野足利家譜』)〔下山治久『戦国時代年表 後北条氏編』東京道出版、2010年、p58。〕。幼名は梅千代王丸。父が北条氏康と河越城の戦いで、敵として戦って敗れて幽閉されると、北条氏からの強い意向で古河公方となったが、天文24年(1554年)11月の元服は、古河御所ではなく北条氏の一支城であった葛西城(現在の東京都葛飾区青戸)で行われた〔佐藤博信「古河公方足利義氏論ノート」(初出:『日本歴史』646号(2002年)/改題所収:「古河公方足利義氏についての考察」佐藤『中世東国政治史論』(塙書房、2006年))〕〔「千葉県の歴史 通史編 中世」(2007年刊、千葉県史料研究財団編・千葉県発行)〕。このとき室町将軍である足利義輝から、足利将軍家の通字である「義」の字を偏諱として受け義氏と名乗り、仮冠役は外伯父にあたる氏康が務めた〔黒田基樹『戦国関東の覇権戦争』洋泉社、2011年、p74。〕。永禄元年(1558年)4月に義氏は葛西城を出て、古河公方としては唯一になる鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣し、8月には公方領国入りを果たすものの、その居城も代々の古河城でなく関宿城とされた〔黒田基樹『戦国関東の覇権戦争』洋泉社、2011年、pp75-76。〕。これらの身上は全て、北条氏の政略上のものとして動かされた。 また、のちに関東管領となった上杉謙信も晴氏の長男である足利藤氏が正統な古河公方であるとし、異母弟であった義氏の継承を認めなかった。関東における北条氏と、上杉氏はじめとする反北条氏との攻防の中にあって、義氏は小田原など古河と関係ない地を転々とすることになった。なお、『小田原衆所領役帳』では「御家門方 葛西様」と記載されている。 元亀元年(1570年)ごろ、越相同盟の締結条件として上杉謙信からも正統性と継承を認められた。ようやく古河公方として古河に戻ることになったが、それは氏康の子北条氏照を後見人にするという条件のもとであり、傀儡であることに代わりはなかった。 天正11年(1583年)1月21日、死去、享年43(満42歳没)。法号は長山善公香雲院。嫡男の梅千代王丸が早世していたため、古河公方の家臣団は梅千代王丸の姉である氏姫を古河城主として擁立した。 名族の血筋が断絶することを惜しんだ豊臣秀吉の計らいで、氏姫は小弓公方であった足利義明の孫・足利国朝と結婚し、喜連川氏を興すこととなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「足利義氏 (古河公方)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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